506回(2014.4.12
一遍上人の遊行と山人世界
小沼 大八 (一遍会 代表 


 《一遍の遊行》

 

一、一遍は何故その後半生を遊行に託したのか。その理由は往相と還相、二つの側面から

捉えられよう。捨家棄欲と念仏布教。それがかれを遊行に駆り立てた最大の理由だった。

一遍は常々「我化導は一期ばかりぞ」と語っていた。かれには教団を創ることはもちろん、

寺院や弟子をもつ意志すら毛頭なかったのだ。それにもかかわらず、時衆教団は誕生した。

残された時衆たちが他阿真教を宗主として遊行賦算を続けたからである。

 

二、当然ながら一遍の遊行賦算と一遍以後のそれとのあいだには、大きな変質がみられる。主な変質を列挙してみよう。

@、武士階級が主な布教対象となったこと。A、道場を構えたこと。

B、知識帰命の徹底 (歴代遊行上人が他阿弥陀仏を名乗る)

C、権力ヘの接近(権力の保護を受けるにつれて、遊行はその本来の精神を失った)。

こうした変質をみるにつけ、社会の底辺にまで念仏を運ぶべく遊行を続け、宗派も立てず、寺院も弟子も持たなかった一遍の遊行の精神はどこへ消え失せたのか、問わざるを得ない。

 

三、それにしても一遍は何故、自分の化導を一期かぎりとしたのか。その理由を探れば、一遍遊行の内実がみえてくる。

当時の日本の人口はおよそ七〇〇万人.日本はいまだ荒蕪地だらけだったのだ。おまけに時代は蒙古襲来(文永・弘安の役)に怯える未曾有の国難の時代だった。そんななかを一遍は時衆二、三〇人を引き連れて、一六年間も遊行しつづけたのである。たとえば日々の食料をどうしたか。厳寒の冬をどう乗り越えたか。病んだ時衆にどう対処したか。けれども「一遍聖絵」はこうした疑問に少しも答えてくれない。思えば「一遍聖絵」は一遍賛仰のために描かれた絵巻物なのだ。だからそこには一遍遊行のハイラトしか描かれていない。ちなみに浅山円祥師は「一遍は幕府と密接な係累関係をもっていたために、日本国中を宗徒を連れて遊行することができた」と語る。けれどもこうした見解は、一遍が河野氏という貴種出身であることを強調するきわめて護教的な発想といえよう。こうした発想ではたして、捨聖一遍を正しく捉えられるのだろうか。「わが化導は一期ばかりぞ」という一遍の言葉にはむしろ、こんな遊行は自分にしか果たせないという強い思いが表出されているとみるべきではないか。

 

 しからば一遍にはどうしてそんな苛酷な遊行が担えたのだろう。そのことに思いを馳せ

る時、山人(遊動民 Homo movens )世界との繋がりがみえてくる。この繋がりなしに一遍の遊行は解けないのだ。そもそも一遍自身、山人的性格の持ち主ではなかったか。ちなみに柳田国男は山人の性格として「正直、潔癖、豪気、片意地、執着、負けず嫌い」を挙げ、それは山伏や修験の徒に特に顕著な特長だという。山人の世界について語ろう。

 

《山人の世界》

 

一、人類はおよそ五〇〇万年前、アフリカの東部で類人猿との共通の祖先から枝分かれして誕生した。そしてその末裔である現生人類もまた、いまから二〇数万年前にアフリカで誕生している。われわれの祖先はその後、移動する大型動物を追って世界中に拡散(出アフリカ)。その一部は遥々日本列島までやって来てわが国の先住民となり、旧石器時代やその後の縄文時代を形成した。だからかれらは生来、狩猟採集民だったのだ。

 

二、縄文時代とは、最終氷河期が終った約一万二千年前から紀元前五世紀までの期間をいう。縄文人は基本的に定住し、その生業は狩猟採集、漁労、樹木管理(クリ、ウルシ等)、栽培などあらゆる分野に及ぶが、穀物生産はいまだ行なわなかった。

 

三、けれども縄文晩期の気候の冷涼化と人口の停滞がついに、水田稲作農業をわが国に引き寄せることになる。弥生時代の始まりである。イネの原産地はアッサム・雲南の照葉樹林帯。金属器使用を伴う先端生産技術として、水稲栽培は大陸から直接、または朝鮮半島を経て北部九州に伝わった。そして北部九州に始まる水稲栽培はその後、超スピードで西日本一帯に拡大。百年を経ぬ間に伊勢湾近くまで東上し、紀元前後には関東・東北地方にまで達した。当然ながらそれを主導したのは、水稲栽培と金属器という新技術をもって渡来した弥生人だった(長身・高顔の弥生人〉。けれども水田稲作が進むにつれて、縄文人もその多くが農民化して弥生人と混淆。ここに分厚い農民層が形成されてわが国は農耕社会に突入したのである。

 

四、けれども農耕社会は土地所有の有無を巡って必然的に階層社会とならざるを得ない。そしてこの階層社会の頂点に立ったのが大和朝廷である。天皇を中心とする国家運営を推進すべく、大和朝廷は公地公民制を根幹とする律令制度を採用。この列島の居住民すべての定住化と農民化を促すために戸籍を作成した。そしてこの公地公民制と戸籍編入により、大和朝廷はこの列島の居住民すべてに漏れなく、徴税(租・庸・訴)と兵役を課する体制を確立しようとしたのである。

 

五、けれども問題はここから始まる。律令体制の進展と共に、この列島の住民の多くは戸籍に編入されて農民となった。けれども農民とはならず、無籍のまま山野に暮らす先住民もまた多数居残った。そして農民による土地の囲い込み(土地所有)が進むにつれて、平地での住みかを失ったかれらは、無主の地である山を住みかとすることになる。山人世界の誕生である。思えばわが国では太古以来、山(奥山)は無主の地であり、神々の所有する世界だったのだ。かくして日本の正史はこれら無籍の非農耕民を土蜘蛛、国樔、蝦夷、隼人、熊襲などと表記。「化外の民」と記し、反対に定住して年貢を納める農民を良民、百姓、大御宝などと呼ぶのである。

 

六、それにしてもこれら「化外の民」は何故、口分田を耕す農民とならなかったのか。そのことを考える時、われわれは狩猟採集民と農耕民とのあいだに横たわる生き方の違いに出会うのである。それは自然人にとどまるか、文明人となるかの違いといってもよい。

 

・狩猟採集生活=自然依存.よい収穫に出会う、出会わないは偶然に支配される。強運、闘争心、飄悍、大胆と細心、動物的勘といった原始心性が不可欠・・・自然人的生き方。

・農耕生活=農業は飼育栽培という生産活動を営む。そこでは勤勉、忍従、計画性といっ

た自己規制、自己陶冶を必要とする生き方が求められる・・・文明人的生き方。

 

 農耕社会が確立して以後の日本の国家運営は重農主義が基本となる。だから古代の律令体制以後も、国家は度々非農耕民に帰農を迫った。けれども日清戦争動員以後もわが国にはなお、二十数万人の無戸籍者が居たという。    思えば人類はその誕生以来、農業と出会うまでずっと狩猟採集生活を営んできたのである。狩猟採集生活はいわば人類の原郷なのだ。そこから離脱することを拒むひと達がいるのはむしろ当然といえよう。さしずめ山人などはその典型といえようか。

 

七、農耕社会が実現したとはいっても、戦国から江戸に掛けて沖積平野の大規模な開拓・干拓が進むまで、日本列島にはいまだ荒蕪地が多く、水稲栽培で人口を養うことは困難だった。そうした余剰人口を受け入れたのが山である。

日本の山は思いのほか豊穣な世界だったのだ。たとえば三年間、父と二人で山中で生活した少年からの聞き書きを柳田国男が録している。「火は用いず、食物は生で食べた。春が来ると木の芽を摘んでそのまま食べ、冬は草の根を掘って食べたが.美味なものもあり一年中食物には困らなかった。衣服は獣の皮に木の葉などを綴って着た。難儀は冬の雨雪で・岩のくぼみや大木の虚ろの中で、川岸にあるカワヤナギの類の、ヒゲ根の多い樹木の根をよく水で洗い、寄せ集めて布団代わりにした」(大岸英志編『柳田国男・山人論集成』)。

 なにしろ日本列島はその七〇%が山岳地帯であり、津軽半島の先端から長門の小串まで

平地に降りることなく往来できたという。それらの山道を猟師や山伏、鉱山師や木地師、タタラ師、鍛冶屋.炭焼き、呪術師、流れ芸人,修験など無籍の遊動民が往来し、かれらがもつ資源と技術、呪術力、情報量などにより、これら山人は結構大きな勢力を誇っていた。

そして平地に定住する農民からみれは、自分たちがもたない原始性を保持するこれら遊動民は畏敬すべき存在だったのである。けれども南北朝の争いの時、かれらは後醍醐天皇側について敗北。急速に勢力を失い賎民視されることになる。

 

八、一遍の一六年間の遊行生活はこれら山人たちと同化し、かれらの支えなしには成り立たなかったといえよう。網野善彦も語る。「勧進は無縁の原理を身につけた上人・聖にして初めて可能である。遍歴、遊行する時衆は無縁の人だった。遊行する時衆が「宿」、「市」などの無縁の場を布教活動の舞台としたことは乞食、非人、を伴い遍歴した一遍の事績によって明らかだろう」(網野善彦『無縁・公界・楽』)。

 

 ・一畝不耕 一所不住 一生無籍 一心無私。(五木寛之著「風の王国」)

 ・「片雲の風にさそはれ、漂泊の思ひやまず」(松尾芭蕉「奥の細道」)